このオンライン期間を「失われた時間」にしないために

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「失われた1年」という言葉

よく「失われた2020年」とか、「失われた1年」とかいう言葉を耳にする。

何もかもオンライン・リモートになり、社会の仕組みに大改造が起こる過渡期のような印象を受けた2020年(2021年もその雰囲気は保たれているけれど)。

企業も学校も家庭も、変革への対応が求められた。

それを楽しむ人もいれば、騒がしいと感じる人もいると思う。

私はそれでもまだ楽しめた方だと思う。この状況で苦しさと辛さをダイレクトに感じている人たちのことはもちろん忘れてはいけないが、より便利に、効率的にと社会のシステムが変わりつつあることは歓迎すべき点だと思う。

私もこの状況を見て、悲しく感じないわけはなかった。式典を行いたい気持ちも痛いほどわかるけれど、新型コロナウイルスの感染対策のためにどうしてもできない場合もある。したくてもできない。してあげたくてもできない。いろんな立場の人がいる。社会である以上、全員の希望を最優先にすることはできず、最適解を探っていくしかない。

でも「失われた1年」という言葉はスッと私には入ってこない。受け入れられる部分もあれば、やっぱり違うような気もする。

私たちは何を失ったのか

「失われた」というが、実際何を失ったのか。

オンライン時代になって私の生活の中で「無くなったもの・減ったもの」は、飲み会、直接会うミーティング、美容院に行く回数、ちゃんと化粧をする回数、人としゃべる時間、気軽に街に出かける時間、人との縁。

そして「失った」とハッキリ言えるのは、マスクをしない生活、くらいしか思い浮かばない。

単に思い返す能力が低いのかもしれないが(笑)、「失った」という「喪失感」まで覚えるのは、マスクをせずに自由に深く呼吸ができる生活ができなくなったことだ。マスクをするようになった代わりに、化粧をがんばらなくても済むようになったから、私の中ではプラマイゼロといっても過言ではない。

今のコロナ禍で、マスクをしないで大声で話しかけてくる人がいるだとか、手洗いうがいを徹底せずに飲み会に行く家族にうんざりだとか、時々そんな話を聞くが、コロナ禍だからコロナにまつわる不満や喪失感が出てくるだけで、実際私たちは普段から何かに「喪失感」や「失望感」を抱きながら生きていると思う。

コロナ禍だから何かを「失った」のではなくて、もともと「失っている」ものが、たまたま今はコロナに関連したものとして表れているだけなのではないかと考える(自分で書いていてもよくわからないが、伝わるのだろうか。わからない)。

「失った」気持ちにならないために

牧師先生は、今が肉体のあらゆる一つ一つの機能を生き返らせ、活性化する時だとおっしゃった。

神様を心からまっすぐ愛して、全力で燃えて、全力で挑戦して、全力で自ら士気を高めて行動しまくること。

「コロナだから」「失った」んじゃない。「コロナがなくなれば」「得られる」わけでもない。結局は自分がどう自分を奮い立たせるか、どう自分をコントロールするかだとおっしゃった。

私はその言葉を聞いて震えた。すごすぎてすごすぎて震えた。

摂理の教会に通っているからハイになっているわけではない。「コロナだけど」全力で生きるんだ。「韓国の月明洞に行けないから私は今スイッチが入らないんだ」「牧師先生に一目会えたら自分は立ち上がれるのに」と言っている場合ではなく、礼拝の中の御言葉で、神様が何を願っていて、自分はどう生きるべきかをみつけだすこと。ここが問題なんだと牧師先生はおっしゃった。

牧師先生は、リーダーとして、指導者として、自身の言葉を有言実行される方だ。人は、その精神によって人生がつくられ、一生が左右されると学んだが、本当にこれからも牧師先生の精神を学んでいきたいと思った。

「コロナのせいで」「失った」んじゃなくて、もともと自分に「失った状態に陥る可能性」があったから「失った」と感じるんだ。人生、まだまだ長い。何があっても喪失感に襲われないように、いつでもかっこよくたくましく自分を存在させるためにも、もっと学んで行動しようと思った。

投稿者プロフィール

さら
さら
東京在住、早稲田卒。
歌うの好き、体動かすの好き、語り合うの好き、料理はふつう…。
摂理に学び摂理に生きる、私のありのままをお伝えします!

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